被害者って言いづらい
ずっと前から書きたくて、でもなかなか考えがうまくまとまらなかったことについて書こうと思います。
モラハラ関係の本・ネットの情報などでは、モラハラを受けている側を『被害者』、モラハラしている側を『加害者』って言いますよね。でも、私は自分のことを被害者だということにちょっと抵抗があったんです。違和感というか。よくある「私にも悪いところがあったかもしれない」という考えがどうしてもよぎってしまうんです。
専門の弁護士やカウンセラー、そして私を助けてくれた被害者の代表とも言うべき熊谷早智子さんやまっち~さんが使うのはいいんです。むしろ、あなたは被害者なんだと言ってくれた方が、被害の自覚につながるし、間違っていたのは私じゃないんだという気づきにつながります。
でも、じゃあいざ私自身が「私は被害者!」って言うのはどうも不安で「やっぱり違うかも。本当にそんなにひどいめにあった?」なんて自問自答してしまうんです。『夫婦は合わせ鏡?』にも書きましたが、結局自分にも悪いところがあるから、夫はきついことを言うんだ、私のために教えてくれているんだ…みたいな発想になってしまうんでしょうね。
悪いところはあったと思う、違う意味で
結論を言えば、自分にも悪いところはあったと思います。それは、私が妻として母としてちゃんとできていないから悪い、ということではありません。では何が悪かったかというと、自分の意見をきちんと言わなかったということです。
いや、言いましたよ、確かに。まだモラハラが本格化していない頃に、それはこうじゃないの?とか、私はこう思うよって言いました。最初から言いたいことを飲み込んできたわけではありません。でも、私が私の意見を言うたびに、マシンガンのように言い返されたり、無視されたり、後から他の人に嫌味のように話されたり…いつのまにか、自分の意見は言わなくなりました。これ言ったら怒るだろうな、こういい返してくるだろうな、また無視がはじまるかな。そんなことばかり頭をよぎり、抑えるようになりました。
今思えば。今思えばです、あくまで。その状況自体がおかしかったんだと思うべきでした。お互い思いやって、でも言わなきゃわからないことはあるんだから言って、それで関係が壊れるようなら、そこまでだったんだって割り切れればよかったと思います。難しいです、本当に。その加減というか、根本的に性格が優しいわけで(自分で言うなって感じですが(^^;))、あんまりこだわりもなかったりして、また我慢することに慣れてるところもあって。
今読み返している本に載っていた言葉です。
「主体的である」とは、「人間として自分の人生に対する責任をとること」だとコヴィーはいう。自分の人生の主役は自分であり、どんな人生にするかを決めるのは自分以外の誰でもない、ということだ。
-まんがでわかる7つの習慣 p.44 監修フランクリン・コヴィー・ジャパン-
いわゆる「普通」の話し合いはできないので、夫婦でよく話し合っても関係がうまくいくようになるわけではないので、もっと早くに、自分の人生は自分が責任をとるという考えで、決断していれば良かったなと思います。何度も言っていますが、今だからわかる、言えるということも十分承知しています。ただ、今悩んでいる方に、私はこう思うよって伝えたいです。結婚する前にわからなかったの?ってよく聞くけど、結婚するまでは「いい人」。相手もそこまでは頑張るから、もーしょうがないですよね。あとはなるべく傷が浅いうちにって思うけど、それもなかなか。3人子供抱えてやっとわかった私ですが、いつでも大丈夫!気づいた時がその時です。主役を取り戻しましょう。